ボクは煩悩の塊である。
『五欲』『十悪』はもちろんのこと、ボクの煩悩は108個では足りないのでは、ひょっとして細胞の代わりに煩悩で形作られているのでは無いかと不安で夜も眠れなくなるくらいの煩悩の塊なのである。
日常生活の中で、『無』になる瞬間ともなるとテレビや映画で受動的に『物語』を受け入れているときか、仕事で自ら『物語』を作り出しているときくらいであり、そのほかの時間はなにかしら社会と自分の接点が移り変わる毎に頭の中で独白しているのである。
個人的には外に発することの無いことなので『独白』なのであるが、赤の他人が客観的に判断するとその内容は妄想以外の何モノでも無いのであろう。
いつからこうだったかと振り返ると、すでに物心ついた頃には目にするモノ、手にするモノと頭の中の世界がシンクロしながらなにがしかの物語が頭の中で展開されていた。
一人遊びが出来てしまう独りっ子の功罪であろう。
中学になる頃には、他人の言葉を勝手に脳内で『聞き間違い変換』を施し、口では普通にコミュニケーションを取っていながらも、脳内では全く異なる『物語』を描いて一人ほくそ笑むコトを愉しみとしていたモノだ。
それは今になっても変わらない。『無』になる瞬間以外、特になにも集中すること無く街を歩く通勤、帰宅時はまさに独白全開の時間である。
気分が良いときには、ヘッドホンから流れる音楽に合わせて、ボクはロックスターばりにステージを縦横無尽に動き回り、観客を煽りまくる。
機嫌が悪いときには、通り過ぎる名前も知らない人や車に対して罵詈雑言の雨あられである。
社会性のかけらも無い爺ぃ〜婆ぁ〜への正義の鉄柱っ!
『もうすぐ年金暮らしになろうともするモンが挨拶のかけらも出来んとは、幼稚園から出直して来いっ!』
暴れ回る幼児、小学生には、
『お前ら、なんでもかんでも無邪気で済まされると思うなよっ!いっちょ前の口利きたいなら毛が生えそろってからにせいっ!!』
思春期真っ盛りの中高生には、
『おまえらの青臭い青春とやらが、十年後どれだけ恥ずかしさに充ち満ちた過去の過ちとして後悔するモノかまだわからんだろぉ〜が、せいぜい汗と埃と栗の花の匂いに満ちた世界でで自己愛に満ちたクソ芝居でも打っているがよっ!!!』
などと、辺り構わずとても平凡な日常生活を送る一般社会人にあるまじき罵詈雑言の限りを尽くして、一人脳内でしゃべりまくっているのである。
冷静にこのように文字にするとボクは相当イタい......。
本書はそんな独白の『物語』である。
タイトルにある中編の『恋愛の解体と北区の滅亡』と短編の『ウンコに変わる次世代排泄物ファナモ』。
どちらもそれぞれ30前のオトコの独白と20代と思われる女子の独白である。
どちらの作品もほぼ独白で湿られており、会話という会話はほぼ無い。必要最低限の箇所だけだ。
どこかで聞いた『ファナモ』。と思いながら読んでいたら、どうやら昨年の『世にも奇妙な物語'14秋の特別編』で戸田恵梨香主演のドラマで見知ってたのだ。
おそらく本書が原作なんだろうが、シナリオと本書の物語は全く違うモノである。
本書における『恋愛の解体〜』での30前オトコの独白、妄想とところどころ邂逅する現実社会の描写、そして日常あり得ない舞台設定が醸し出すズレた感覚。
微妙に15度ほど、ズレた感覚とでもいおうか。
このズレを補正しながら『健常者』の立ち位置で読破できるか、ズレをそのまま受け入れられるかという関係性を保てなければ、この『物語』には入り込めない。
そういう意味では本書というか、この前田司郎という作家は読者を選ぶ作家である。
どこかでこの手の物語を読んだかも?と思いながら読み進めたが、90年代出版社が作り上げたお祭り『J文学』という流れの中で位置づけられた中原昌也の物語でもこの手の感想を覚えた。
日常からちょっとズレた感覚。かなりズレたSFのようなものではなく、ちょっとであるが故にかなりの違和感を感じさせる主人公。
本書はそれに加えて、奇想天外な舞台設定が加わり最終的にどういうジャンルの物語なのかを読者に着地させるという点では面白い仕掛けである。
愛と憎悪をメカニズムを解明し『恋愛の解体』に重きを置くか、北区で発生した重大事件とそれが巻き起こすカタルシス『北区の滅亡』に重きを置くか。
どちらかに重きを置くかで読み方も変わってくるオモシロい本である(笑)