きっかけはネットでみたこの記事だった。
役所広司演じる阿南陸相を主人公とした1945年8月15日の昭和天皇による玉音放送開始までの1日を辿るドラマとのこと。
ここんところ満州を中心に戦前からの昭和の時代を巡る書籍を読み続けてきたんで、そろそろ終戦時の状況というモンに手を伸ばしてみてもよいかと思ったのだ。
さっそくAmazonさんでポチったところ本書の初版は昭和40年(1965年)とのこと。
ボクでさえまだ生まれる前の本である。
終戦が昭和20年(1945年)なので、本書の出版まではまだ20年しか経っていない時期。
今となってはほぼ当時の関係者が亡くなっているであろうが、当時ならではのまだ生存している当事者へのインタビューや1次資料に加えて、最近発見された一級資料で再考し、手直しを加えたモノがこの『日本のいちばん長い日(決定版)』である。
戦前、前後に渡り、当時の日本人の熱狂の理由を探して様々な本を読み進めているモノの最近出版されたモノは読み易さはあれど、やはり資料から導き出されているモノが多く、当事者の声、熱というエモーショナルな部分が伝わらないところに限界がある。
そういう意味で本書は当事者の声、熱情と言ったモノを1次情報として収集し、纏められているという意味で今となっては貴重な情報であろう。
冒頭、初版出版時の大宅壮一の序にこう書かれているところから本書は始まる。
今日の日本および日本人にとって、いちばん大切なものは〝平衡感覚〟によって復元力を身につけることではないかと思う。内外情勢の変化によって、右に左に、大きくゆれるということは、やむをえない。ただ、適当な時期に平衡をとり戻すことができるか、できないかによって、民族の、あるいは個人の運命がきまるのではあるまいか
まさにボクが歴史から学ぼう、知ろうと思っている時に気をつけるべきと常々感じているモノと同じことを述べている。
昭和の戦争に限らず、幕末、戦国、南北朝のどの時代であろうとこの『平衡感覚による復元力』を身につけることは重要と考えている。
大宅壮一のような大家と同じく平々凡々のボクであっても同じようなことを考えつくということは、やはり『日本人の熱狂』というものは民族的な欠陥ともいうようなモノなのであろうか?
と、このような日本人論は本書の領域ではないのでとりあえずおいておいて。
本書は1945年8月14日の正午から玉音放送が行われた8月15日の正午までの24時間の物語である。
テレビの終戦特集、昭和特集等で何度も目にし耳にした昭和天皇による玉音放送。
ラジオで天皇自らが声を発するということ自体とんでもない初のことであるという認識も特になく育ってきたが、よくよく考えるとつい先ほどまで現人神として崇め奉って在らせられた昭和天皇ご自身のお声をラジオを通じて直に聞くということ自体が当時の国民にはとんでもない出来事であった1945年の日本。
玉音放送の時にはすでに戦争云々といったことはどうにもこうにもならない袋小路状態に陥っていたモノと漠然と思っていたが、この24時間の間に戦争に至る道のりの様々なことのすべてが凝縮されていたのである。
昭和前史をすべて凝縮した濃くて長い一日の記録。
この24時間を1時間ずつ状況の進展を描く手法はまるでドラマ『24』を観ているかのような緊迫感とドラマ性を高めている。
戦争責任を背負うべき人物はほぼ戦況悪化のためステージから退場させられ、残されたB級、C級ともいうべき登場人物がメインの本書はともすれば華がないと思われるかもしれない。
しかし、トップスターが退場すると自然と下の人間が成長してトップスターの座を掴むモノである。
本書でもその筆頭は戦争を終結に持って行った主人公の一人、鈴木貫太郎首相だろう。
ボク自身この人にはほとんど関心も無かったし、記憶にすらなかった人である。
この鈴木首相ののらりくらり一見飄々としながらも、周りの意見がすべて出し切るまで議論させて、最後の最後で自分が思う方向へ誘っていくやり口がなんともB級タレントらしい組織マネジメントで彼自身のキャラが引き立っている。
しかし、陸軍が『統帥権』の名の下に天皇を利用して戦争を拡大してきたのと同様、この鈴木首相のやり口も最後の最後で天皇の『聖断』というものを利用したのだとボクは思う。
日本における『天皇』というものの特殊性。皇帝でも王様でもないなにものでもない、なにか。
天皇の強権というものはなんなのか?本当に持ち得ていたのか?
よくよく日本史を眺めていても、天皇親政という時代は古代を除いては後醍醐天皇の建武の新政くらいである。他の時代はどの時代でも『天皇』というものはいざというときに担いで正当性を主張するための証明書でしかない。
それが本当に昭和の時代というのは違っていたのだろうか?
ということは常々疑問に感じているところである。
日露戦争以降、『天皇』という存在はますます神聖化されていく。
本書でも日本における天皇の存在というものが至るところで書かれている。
別の一組は「大御心」とはなにか、「国体の精華」とはなにかという大命題にとっくんでいた。真剣に、それは殺気だつほどの真剣さで。しかし真剣すぎるだけに狭かった。彼らが大問題にとっくんでいる土俵がつまり「軍人精神」というワクであるのに、彼らは気づいていなかった。彼らは教育されていた。全滅か、もしくは勝利あるのみと。彼らに降伏はなかった。陛下を奉じて戦えば、たとえ全滅するもそれは敗北ではない。そうした神秘的な、しかし徹底した観念を吹きこまれていた
この時期ほど〝国体〟が問題にされたときは日本歴史はじまっていらいなかったであろう。彼らばかりではない、幾度、幾十度、幾百度、何千何万の人が「国体」という言葉を口にしたかしれなかった。しかしその内容としてはなにが考えられていたかとみてくれば、千差万別、その顔の異なるように変っていた。抽象的に高唱された場合があり、もっと具体的な意味をもったときもある
米内の言う憂慮すべき国内事情とは何なのか。政治上層部や官僚や財閥は、明らかに共産革命を考えている。
内大臣木戸幸一、近衛、岡田啓介ら和平派が恐れていたのは、本土決戦による混乱であり、それにともなう革命である。和平派が望んだのは、革命より敗戦を! であった。
機関としての天皇。彼らは、軍部や絶対天皇主義勢力を切り捨て、天皇制を立憲君主制としてでも残し、なんとか機構の存続を図ろうとしたのである。
阿南は、軍人でありながらこれに与した米内をついに許せなかった。将来の天皇の保障なくして、期待や可能性で終戦を推進するとは、阿南からすればこれ以上の不忠はないのである
戦中を通してますます『天皇』というものの神聖化を推進し、翼賛体勢を強化していった当時の為政者たちは結局のところ『国体』などという意味不明な実態のない言葉を作り出し、その言霊によって『日本』という国を縛り付けた。その中心には『大御心』という魂の入っていない『御輿』を置き、それぞれの立場で利用しあっただけなのではないだろうか?
天皇に主権というものは本当にあったのだろうか?
となると、美戸部達吉の天皇機関説や現在の象徴天皇制と実行上なにが違うのだろう?
現在の日本人の感覚では理解できない、違いというモノが当時ははっきりと論理的に理解できていたのだろうか?
とまた新たな興味が沸いてきた、そんな様々な興味をもたらせてくれる一冊である。
この本は、その特長として直接に証言者にあたり、実地の踏査を重んじたことにある。三十年前にはまだそれが可能であった。もちろん当時刊行されていた幾つかの文献にあたったが、それらで定説になっているようなことでも一応は直接関係者の証言をとおして再確認し、疑いの残るものはとらなかった。そして今回知るかぎりの新事実を足したが、これで完璧になったかどうか、確信はない。歴史を正しく書くことの難しさは実感している。まして証言の喰い違う当事者の、生存している現代史を書くことにおいてをや、である
今となってはとても実現できない貴重な情報を纏めてくれていたことに感謝したい。
文藝春秋
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