自他共に認める活字中毒患者であるボクが一番影響を受けやすいのは、いまだにネットや口コミの情報や雑誌よりも書籍である。
なにも出版社がしっかりと編集したコンテンツとして一番信頼が置けるなどという、出版業界礼賛・出版ヒエラルキーへの帰依などというくだらない理由ではない。
単純にボクは『本』がすきなのである。
一枚一枚の紙を束ねて、左右どちらかで綴じてあり、カバーに装丁を凝らした四角四面のつまらないヤツ。
あの四角いパッケージがすきなのだ。
なので、年に何回か思いもよらず読み進めているうちに、作者の意図とは全く関係なく天啓を授かるような『本』と出会ってしまうのだ。
灼熱だった今年の夏から多少は高気圧も気が抜け始めてきた9月の初旬、久々に天啓を受けた一冊がこちらの『晴れたらライカ、雨ならデジカメ』である。
著者は田中長徳氏。
この2年ばかし、カメラや写真に関する本ばかり読み漁ってきた中でも、田中長徳氏の本は我が家の本棚の中で一番の幅を占拠している。
ファンなのである(笑)
なので、はじめの頃は普通に販売されている長徳氏の本を読み漁っていたが、10年以上前のクラシックカメラがブームとなりつつある頃の氏の書籍ともなると、すでに通常の出版流通のルートには在庫がなく、なのでAmazonマーケットプレイスを駆使して古本を買い漁るほどにファンなのである(笑)
本書は長徳氏らしい肩肘張らぬ肩の力を抜いた感じで、フィルムはフィルム、デジタルはデジタルでそれぞれ長所を活かして使い分ければいぃ〜じゃない。どっちがすぐれているとかどぉ〜でもいぃ〜じゃない。という本である。
発売されたのが2007年ということだから、もう市場的にはデジタルカメラがフィルムカメラを性能的に充分充足できるレベルに達してしまった後の頃合いだろうか?
1994年、カシオがQV-10を発売して以来日進月歩で進化し続けてきたデジタルカメラ。
まずはコンパクトデジタルカメラの領域で着実にそして独自の進化を遂げていったデジタルカメラは、一眼レフカメラの領域でも進化を遂げ、2005年にはフィルムカメラとデジタルカメラの販売台数が逆転したという。
その頃にはすでにフィルムカメラは終わった、これからはデジタルカメラだ!という議論が盛んに喧伝されていたのではなかろうか?
これまで『カメラ』という名称で通っていたモノはレトロ趣味・ノスタルジー趣味の領域に取り込まれることで『フィルムカメラ』、『銀塩カメラ』という新しい名称を与えられ、『デジタルカメラ』がそれまで『カメラ』という意味合いで使用されていたモノと同じ意味合いで『デジカメ』と一般名詞化されていったのが、QV-10発売から10年経った00年代中頃のコトだったのだろう。
以来、喧々諤々のイデオロギー闘争もあったかと思うが、そんな時代の変わり目の喧噪も、時代が変わってしまえば忘れ去られてしまうモノで、さらに10年が経った10年代も半ばを過ぎた今となっては、『フィルムカメラ』って可愛いよねぇ〜、『フィルム』が写す画ってアナログ感満載でいぃ〜よねぇ〜、フィルムで撮って現像が出来上がるまでの時間のドキドキ感がたまらないよねぇ〜などと若人までもが昔のフィルムカメラに視線が向く時代である。
なにせ、わざわざフィルムカメラで撮影して現像・プリントした写真をデジタル化してInstagramにアップすることになんの違和感も持たない世代がフィルムの世界に興味を持つような時代なのである。
その萌芽にも長徳氏は10年以上前の時点でしっかりと嗅ぎつけている。本書の中でも一部触れられているが、フィルムかデジタルか?というような脳味噌凝り固まった尺度はオジサンたちしか持ち合わせていないのだ。
感性がより柔軟な女性や若人は今になってインスタ映えするためにフィルムカメラに飛びついたワケでは無く、10年以上前から『デジカメ』といういまのカメラとは違う『フィルムカメラ』という新しいおもちゃの価値を素直に受け止め、たまたまデジカメと同じような機能を持ち合わせているンで、それぞれのいいところを使って楽しめれば良いじゃん!くらいなノリなのである。
『晴れたらライカ、雨ならデジカメ』。
まさに至言である。
さらにボクが本書に深く入り込んだのはTHE ALFEE坂崎氏の帯にある、『ツアーはライカ、ネコはデジカメ』である。
これを目にした瞬間、ボクは天啓を授かった。
『ハレにはライカ、ネコにはデジカメ』である。
せっかくLeicaのM、Lシステムに集約させたにもかかわらず、Nikon EMを手にして以来、ボクのおもちゃ箱の方向性が曖昧になってきたのが今年の夏の初め。
Nikonの勢いは止まらず、その後Nikon DfにぞくぞくとNikonのレンズが増殖していった。
しばらくの間、Ricoh GR2やLeica Qといったコンパクトデジカメ以外にレンズ交換式のデジタルのAFカメラを持ち合わせていなかったので、久々のAFレンズでDfのEVFではない光学ファインダーでみる絵面は目に優しいのである。
しかも、動いたり止まったりと距離感を縮めながら撮影する猫にはAFは最適なのである。いつしか、それまで常に持ち歩いていたLeica M TYP240はすっかり持ち出さなくなり、Nikon Df+Gレンズがお持ち歩きカメラの座を奪っていたのだ。
とはいえ、じっくり撮りたいという写欲を昇華させるには機能だけでは満たされない。
モチベーションを上げられる+αの魔性の魅力、物神としての魔力が必要なのである。
『メカを操作して写真を撮る』という他人にとってはどうでも良いような自己満足の行為を肯定できるのはやはり物神としてのLeicaなのである。
お手軽とか機能豊富とか合理的な判断の及ばない世界というモノは確かにある。
フィルムカメラの世界はまさにそれで成り立っているとも言えるのではないだろうか。
電源入れて被写体にレンズを向けてシャッターを押す。それだけで失敗のほぼ無い写真が撮れてしまう時代なのである。
しかも、わざわざカメラを持ち歩く必要なんてそもそもない。常に持ち歩いているスマホのカメラでデジカメと同じことが出来てしまうのだ。
なのに、なぜわざわざ七面倒くさい手順を踏むフィルムカメラなのだろう?
ボクにはまだ中学時代に親爺様のフィルムカメラで写真を撮る歓びを感じた記憶のある世代である。
なので、とっかかりはノスタルジーもあった感は否めない。
ボクがLeicaに拘るのはひとえに高揚感なのではないかと思う。
車好きのフェラーリや時計好きのロレックスと同じようなものだ。
所有することの満足感。メカニックを操作することの高揚感。そしておそらく今のデジカメよりも長く使用していられる飽きのこないデザインとメンテナンス性にある。
男は何歳になってもロボットを操縦していたい小学生と変わらないメンタリティなのである。なんてこというと女子に怒られそうだが、気持ち的にはこれと変わらないところが男がいつまでもバカである所以なのだ。
ということで、
『ハレにはライカ、ネコにはデジカメ』
まさに写欲わき出す秋が始まろうとしている9月初旬。
ボクは一大決心をすることとなった。
これまでほぼ一年間お持ち歩きカメラの主力であったLeica M TYP240。
それと、これまで所有してきた数々のカメラの中でこれほど人を堕落させるカメラはないだろうと思われるLeica Q。
これは恐ろしいほどのカメラである。
レンズを被写体に向け、シャッターを押すだけでSummiluxが映し出すLeicaらしい絵が老若男女撮れてしまうのである。
このデジタルLeicaの2台を涙を飲んで手放すのだ!
でも、数々のLeica M、Lタイプのレンズをフィルムカメラだけで使用するのは忍びない。
タダでは転ばないボクとしては次の一手もちゃんと考えているのである...フッフッフ。