毎週末は池袋ネコ歩きmini南ウィングコースをブラりしているのですが、そのコースでは雑司ヶ谷霊園を通るので、いつの日か毎週のように永井荷風の墓参をするようになったのです。
ということで、荷風の墓地は雑司ヶ谷霊園にあるのですが、荷風の日記には、
余死する時、後人もし余が墓など建てむと思はば、この浄閑寺の塋域娼妓の墓乱れ倒れたる間を選びて一片の石を建てよ
と記しているのです。
荷風の骨は雑司ヶ谷霊園に埋葬されども、その心は浄閑寺に眠っている。
いつの日か南千住の浄閑寺に行かねばならんなぁ〜と思っていたのに、なんということかっ!?
わざわざGoogleマップにマークしていたにもかかわらず、先日三ノ輪駅から日本堤をお写ン歩した際に、三ノ輪駅すぐ近くの浄閑寺をすっかりスルーしてしまっているでは無いかっ!?!?
ということで、再び三ノ輪駅に向かったのでございます(笑)
浄閑寺は三ノ輪駅3番出口を出て北に向かってすぐのところ。
門前には投込寺といわれた謂れが書かれています。
門を入ってすぐのところには萩原秋厳のお墓。
萩原秋厳とは?ボクも存じ上げなかったんですが、江戸後期の書家とのことでした。
ということは荷風の塚もこの辺りにあるのかと思いきや、本堂付近には見当たらず......
本堂脇がすぐ墓地になっており、見渡したところですぐに見つかる感じもせず...(^^;)ハハハ。
ちょっとGoogle先生に聞いてみたら、どうやら本堂裏手にあるらしいと。
ホントに本堂の真裏のところにございました。
こちらは荷風文学碑といわれるモノ。
今のわかき人々
われにな問ひそ今の世と
また來る時代の藝術を。
われは明治の兒ならずや。
その文化歴史となりて葬られし時
わが青春の夢もまた消えたり。團菊はしおれて櫻癡はちりき。
一葉落ちて紅葉はかれ
緑雨の聲も亦絶えり。
圓朝も去れり紫蝶も去れり。
わが感激の泉とくに枯れたり。
われは明治の兒なりけり。
或年大地俄にゆらめき
火は都を燬きぬ
柳村先生既になく
鴎外漁史も亦姿をかくしぬ。
江戸文化の名残烟となりぬ。明治の文化また灰となりぬ。
今の世のわかき人々
我にな語りそ今の世と
また來む時代の藝術を。
くもりし眼鏡ふくとても
われ今何を見得るべき。
われ明治の兒ならずや。
去りし明治の兒ならずや。震災 偏奇館吟草より
その横に、荷風の筆と歯が納められているという荷風花畳筆塚がありました...(-人-)合掌。
その前には新吉原総霊塔...(-人-)合掌。
ようやく荷風の筆塚に参拝出来たので、前回日本堤側を徘徊したということで、今回は泪橋の向こう側である清川二丁目を目指します。
浄閑寺の門前の通りにはまだ昔ながらの看板建築が残ってたります。
そんなこんなで泪橋。
この旧日光街道の南東のブロックが清川二丁目になります。
やはり泪橋を越えたこの辺りも簡易宿泊所が連なってますね。
表通りの明治通り沿いではビジネスホテルと名打った宿泊施設が多いです。
この一番北側の明治通り沿いからは南に向かって路地ごとにジグザクに東西を行ったり来たりしながら、清川二丁目のブロックを徘徊します。
いわゆる以前のドヤ街ならではの光景ですが、自転車の駐輪状況がすごいですね。
駅前の駐輪場や学校の駐輪場以外で、いまやこんなに自転車の塊を見る機会はないですよね。
お店が開いていたら、夕方くらいからいぃ〜雰囲気になっていそうな酒屋さん。
土地柄ならではの名前の、これは社会福祉施設なのかな。
簡易宿泊所のブロックから安アパートが建ち並ぶエリアに。
左右にいぃ〜按配の建物が。
左側はこんな感じで。
右側はこんな感じ。
その前の角には明るい家族計画。
いまやなかなか見かけなくなりましたね...(^^;)ハハハ。
以前の日本堤にもキリスト教の教会がありましたが、清川二丁目にも伝道所がありますね。
近くにもう一箇所あるそうです。これも土地柄なのかなぁ〜。
なかなか衝撃的だったのが玉姫公園。
公園前の路上では、路上にいろいろ集めたモノの自主的なフリーマーケットのような感じになっており、公園内はブルーシートのダンボールハウス的な住処がまだ数多く存在してました。
最近は行政の手で撤去が進んでこういう景色がなくなってしまったと思っていたんですが、まだ残ってるところもあるんですね。
そんな玉姫公園の隣は玉姫稲荷神社。
神社にしては手入れが行き届いていないのか、ところどころ雑草が生い茂ってます。
コロナ禍以来水が張っていないんであろう手水舎。
龍の口も渇ききっています...(^^;)ハハハ。
今回の目玉はここかなぁ〜。
ジグザグと路地を徘徊していて目に入ったこの草木に食べられたかのような住宅っ!?
もう、ほぼほぼ元の家屋の形が草木に覆われていてわかりません...(^^;)ハハハ。
脇の階段を撮ったんですが、もはやこの階段を使って2階に昇れるとも思えず......。
ドアは開きっぱなしで、廃屋かとばかり思っていたんですが?
中を覗くと電気が灯っており、廃屋ではなくまだ使用されているようです。
家に帰ってGoogle先生に聞いてみたら、ここは清川のジブリの森ともいわれているらしい『ルマ・いなりや』という物件で、ネットでは随分有名なところのようですね。
今でも宿泊可能ということですが、なかなか勇気がいるよなぁ〜...(^^;)ハハハ。
そろそろ清川二丁目探訪も終わりかけたところで、謎の物件がもう一つ目に入ってきましたっ!?
いったいこの2階のドアはなんのためのものなのだろうか??
そんなこんなで清川二丁目ブロックの南端まで徘徊し、清川二丁目〜日本堤一丁目の南端を日の出会館商店街を西へ進むと、いわゆる見返り柳の交差点。
この先に進むと古の吉原遊郭でございます。
見返り柳の先は五十間道。
この通り道はウネウネしており、表の世界から吉原遊郭を見渡せないようになっているそうです。
そして、吉原大門!?
初めてこのエリアに足を踏み入れたんですが、吉原大門跡なんで、昔々の遊郭時代の趣は一切残っていないよう...(^^;)ハハハ。
辛うじて、昔ここが吉原大門でしたのよという感じの柱が屹立しているだけでした。
吉原の中央通りは仲之町通り。
さっそく花魁物語とか、いかにもな店名のお店が目に入ってきました(笑)
おやっ?なんか料亭のような佇まい?と思って近づいて行くと、こちらは桜鍋のお店『金村』さん。
見返り柳交差点のところにも桜鍋の中江さんとかありましたが、吉原界隈は桜鍋が名物だったんですかね?
仲之町通りの脇路地を南へ進むと、脇路地にも吉原なお店が連なっておりまして。
そんな中にポツンと文化住宅!?
こんなところにまだ健気に一軒だけ残っておりました。
手前は駐車場になってたり、歯抜けで再開発を待っている感じ...(^^;)ハハハ。
夜だとこの寂れ具合も暗闇とネオンでごまかせるんだろうけど、朝っぱらだとちょっと夢の世界から覚めてしまうような佇まい...(^^;)ハハハ。
吉原なお店ばかりかと思いきや、先ほどの文化住宅に続き簡易宿泊所もぽつんと一軒だけ残ってたりします。
ここ営業してんのかな?廃業??
再び仲之町通りに戻るとネオンじゃなくても、やたらと賑々しくギラつく金瓶梅(笑)
そろそろソープ街も終了したところで吉原神社が見えてきました。
こちらは本殿...(-人-)合掌。
本殿の脇に『お穴様』という不思議な名前の祠がありまして。
この石の下にこの付近の土地の神様がお眠りあそばされていらっしゃるそうです...(-人-)合掌。
吉原神社の近所にもう一つ神社があるそうなので、そちらに向かって歩いていると角地になかなか不思議な造作の一軒家。
その先にあるのが鷲神社。
『サギ』でも『ワシ』でもなく『おおとり』神社とのことです。
サギだと漢字違うし、漢字からするとワシなんですけどおおとり神社でございます(笑)
こちらの鷲神社は酉の市発祥の地なんだそうです。
本殿の階段脇になにやら小さくて賑々しく並んでいるので、気になったんですが、こちらは叶鷲というモノで、なんといわゆる絵馬なんだそうです。
願い事を紙に書いて、それを鷲のお腹にいれて納めると願い事が叶うとのこと。
帰りは鷲神社まえの国際通りを三ノ輪駅に向かって歩いていたら、ちょうどこの通り沿いに池袋駅東口行のバスの路線だったんで、竜泉バス停からバスに乗って池袋に戻ったのでした。