きっかけは冨田均の『東京徘徊』で目にした一文だった。
さて、路地である。まづ山の手大地と下町低地の境目、田端台あたりから巡らう。界隈では與楽寺裏の笹鳴き坂と富士見橋の西の袂から劇団文化座の方へと下がりてゆく坂がわたしの愛好するところであるが、極めつきは芥川龍之介終焉の田端町四三五番地の崖側から切通しの橋を向かうに回り、田端八幡神社の裏手へと向かう道筋である。ここには今時珍しい町屋所有の花樹園と畑地がけして大きくはないが拡がり、春はさながら天国の趣き、私は何か、舞台の書割の如き別天地に身を置いたやうな錯覚を覚えて陶然としてくる。
今や昔の無いモノねだりの憧憬でしかないのはわかっているものの、荷風散人の散文を初め、このような昔の東京市を思い起こさせる文章に心洗われるのです。
東京大空襲の惨禍を経て、再開発で新たな地層を被せて再出発をした戦後3/4世紀を重ねた下町にいかほどの痕跡も期待はできないとは思えど、なにはともあれ芥川龍之介の旧居跡がある田端に向かったのでございます。
ちなみに芥川龍之介は羅生門と蜘蛛の糸しか読んだことございません...(^^;)ハハハ。
この日のお供はここのところマイブームが続いているLeica M9-Pに久々に取りだしたJupiter-12。
あの後ろ玉がエゲツなく出っ張ってるロシア製Biogonコピーな35mm f2.8。
出っ張りすぎた後ろ玉が干渉するんじゃ無いかと?付ける前にGoogle先生に問い合わせたところ、M9に付けていらっしゃる方は意外といるようなので、安心して合体!フィルムカメラは持たずにこれだけで朝写ン開始ですっ!
まずは池袋から山手線でJR田端駅へ。
山手線で一番乗降客数が少ない駅として名を馳せております(笑)
朝6時半くらいだったんで、外はまだ朝焼け。朝焼けの先にスカイツリーが聳えておりました。
田端駅北口の前の道を渡るとすぐ見えてくるのが『田端文士村記念館』。
文士村というと、以前アップした『偽『東京いい道、しぶい道』〜【仲通り・馬込三本松通り】』では馬込文士村を通り過ぎましたね。
あの時代の文士たちは田畑広がる閑静な田舎の縁を好んだんですかね。
10月から1月までは『文士たちのアオハル』という企画展を開催しているようです。
なんか、お客さんを呼び込まないとイケないのはわかるけどなんかねぇ。キーワードが見え見えでイヤだな。
田端文士村記念館を囲うように走っているのが江戸坂です。
江戸坂を道なりに田端文士村記念館の敷地をグルリと回遊して歩くと駅前を通っていた道に戻ります。
その白山小台線に架かる橋が東台橋。
この橋の中程で下に視線を向けるとこの田端の大地が武蔵野台地の端っこにあることがわかります。
東を向くと、その昔には隅田川や天気の良い日には筑波山まで見えたとか?
反対側の西に向くと御覧の通りの田端の切り通し。
両側は石垣のように石の壁が続きます。
この切り通しにそって西へ向かいます。
童橋を過ぎて次の路地を左に曲がると、道なりの所に、
『芥川龍之介旧居跡』のプレートが立ってます。
この手の文士系の名所旧跡ってほとんど残って無くて、こんな感じの説明書きだけなんですけどね...(^^;)ハハハ。
ちなみに現在はマンションになってます。
芥川龍之介旧居跡の前の道を道なりに進むと与楽寺坂。
与楽寺坂を歩いていると、こんな竹林が現れました。
ここって、冨田均が書いていた『與楽寺裏の笹鳴き坂と富士見橋の西の袂から』の笹鳴き坂の名残なんですかね?
そんなこんな道沿いに歩いていると、その昔芥川龍之介が結婚披露宴や文士の親睦会に利用していたらしい、割烹料理屋天然自笑軒の跡地。
いまはもう廃業してしまっているようですね。
するとまたグルリとコの字に徘徊して白山小台線に戻ります。
切り通しの道を渡ると大きな神社とお寺さんの境内が広がります。
そんなところでブラぱち猫クラブの活動も(笑)
こちらは東覚寺。
護摩堂の両脇の不気味な物体は!?
東覚寺は赤紙仁王尊で有名なところだそうで、本来は金剛力士像なんだそうです。
赤紙を購入して、自分の体の悪いところと同じ所に貼り付けて祈願すると恢復するとの謂れがあり、その為に体中に赤紙が貼り付けられて赤紙仁王と言われるようになったとか。
特定の場所に集中するでもなく、満遍なく貼られてますね...(^^;)ハハハ。
でも、腕はそうでも無いのかな?それか丸みがあるんで風とかで剥がれやすいとか??
そんな東覚寺隣には村の鎮守の田端八幡神社。
下町気風なのか田端は7時前からお爺ちゃんお婆ちゃんがやたらと歩き回っております(笑)
なんかフィルムで撮ったような空の青色。
こういう色の出方をするM9-PのCCDセンサーが好きですねぇ。
『田端八幡神社の裏手へと向かう道筋である。ここには今時珍しい町屋所有の花樹園と畑地がけして大きくはないが拡がり、春はさながら天国の趣き』
と冨田均が書いた八幡神社の本殿裏の裏手の路地を徘徊しましたが、確認するまでもなく花樹園も畑地も見る影もなく、どこもかしこも住宅地に成り代わり、趣きの欠片もございませんが...(^^;)ハハハ。
そんな中一面色を変えた道筋がありまして。
辛うじて昔ながらの日本家屋が残っていたり。
そんな色づいた坂は『ポプラ坂』と呼ばれており、現在田端保育園となっているところはポプラ倶楽部というテニスコートだったようで、田端文化人たちの社交場だったとのこと。
先の方はかなり下がってますね。
ポプラ坂を後にして正岡子規の墓碑がある大龍寺へ。
なんか山門締まってんじゃん!?
とガッカリ仕掛けたら、山門脇にありました。正岡子規の墓碑...(^^;)ハハハ。
いいの?こんな人通りも車通りも激しそうな所で??
子規ゆかりの地である子規庵近くの墓地ではなく、わざわざ北区の大龍寺にした理由に、生前子規が遺言で「五月蠅いところはイヤだから静かなところに葬ってほしい」といったからみたいなことを目にしたことがありますが...(^^;)ハハハ。
実はちょっと前の写真あたりから気になっていたんですが左隅の上半分くらいの所にゴースト?
やっぱり後ろ玉がセンサーに近すぎて、光の入り具合加減で悪さしてんだろか??
そんな大龍寺山門前にも立派な木造日本家屋が残ってました。
この時代赤というか小豆色というかこういう色で木の壁を塗るのが流行ってたんですかね?
他の所でもこういう色合いの古い木造日本家屋をちらほら見かけます。
大龍寺の隣にも八幡神社が隣接しており、その脇を通る八幡坂もいちおう田端文士村に関係しているようです。
芥川龍之介が次の行き先を示してくれたんで、八幡坂を上っていきます。
ちょっと路地に入り込んだところにあるのが、室生犀星旧居跡地。
現在は普通の一般住宅が建ってます。以上(笑)
室生犀星旧居跡地の路地を抜けようと道なりに進んでみます。
路地に似合いますよねえ、この青いトタン。
下町の路地ではこんな風に家の前を鉢植えで飾る家が多いですね。こういう光景好みです。
そんなこんなで大きめの道に抜けたと思ったら、こんなところにも田端文士村の跡地が。
こちらはサトウハチロー・福士幸次郎旧居跡。
いまは小型消防ポンプの格納庫になってます...(^^;)ハハハ。
三度白山小台線へ。
先に見える橋が東台橋ですね。
最後はこの切り通しの橋を歩いて田端駅まで。
そんなこんなな田端文士村巡りは正味2kmくらいの行程でした。
Jupiter-12は光の入り具合でゴーストとか青被りとかしますね。
それを楽しむ分にはいいけど、記録的な写真を撮るにはちと扱いづらいかも。