『グミ・チョコレート・パイン』というじゃんけんと語数=歩数で競うこの遊び。
ボクが育った上州のからっ風吹きすさぶところでは『グリコ・チョコレート・パイナップル』だったはずだ。
しかし、この『グリコ・チョコレート・パイナップル』には常々疑問を感じながら遊んでいた。
なぜなら、
- グリコ=ぐりこ(3文字)
- チョコレート=ちよこれいと(6文字)
- パイナップル=ぱいなつぷる(6文字)
これだとこのゲームはグリコのひとり負けの様相が強いのである。グリコが勝つ様相というのは、飛び道具のチョコに勝ち続け(パイナップルには必ず負ける)、少しづつコツコツと歩数を積み重ねていくというまるでウサギとカメのカメのような勝ちっぷりなのである。
幼きながら、なんか不条理な感じを持ちながらやっていた記憶がある。
それに比べて『グミ・チョコレート・パイン』であれば、
- グミ=ぐみ(2文字)
- チョコレート=ちよこれいと(6文字)
- パイン=ぱいん(3文字)
と、グミだけの一人負けという感じでは無い、同じようにちょっとだけ良い手パインもあり、チョコレート一つに対して、グミとパインを組み合わせても1歩だけチョコには及ばないというどうにもこうにももどかしいけど、ゲーム性が高まるのである。
この三部作は本作、第三作目にして性春小説からついにいっちょ前の青春小説へと昇華した。
まだオナニーはするが、オナニーによる刹那の快感によって恐怖と自己嫌悪を緊急回避しようと試みることよりも、大切なことを主人公の賢三は知ることになる。
「すなわち、この世は空、空すなわちこの世なんじゃ。賢三よ、この世は執着すればするほど苦しむ空であることを腹に収めよ。しかし同時に、無常であれども、確かに存在しているのだから、目的と意欲を持ち挑戦する価値のある空であることもまた腹に収めよ」
「失恋も同じだと思うよ。ふられてからっぽになったからこそ、逆に、いろんなものをその中にこれから新しく詰めこめるんだよ」 「そうか」 「そうだよ。私もふられて自殺しようとして、なぜかこんな店で働いているんだけどさ、今じゃふった人に感謝してるもん。私を一度からっぽにしてくれてありがとうって、逆に、新しいこと詰めこむ隙間を、そいつが作ってくれたわけだからさ、詰めこんでも詰めこんでも、まだまだ足りないでっかいからっぽだよ。今日も明日も詰めこみ作業で大忙しだよ。悩んでる暇も無いよ」
ただの変態ジジイかと思いきや、大変な有名人だった山之上のじーさんと早朝サービスのヘルス嬢である偽みかこの言葉である。
この二人との出会い、経験により賢三はようやく現実に向き合う勇気を取り戻す。
そして、ライブハウス屋根裏でのデビューライブで賢三を待つ三人のボンクラ共のところへと疾走するボンクラ主人公賢三。
まさに青春成長小説の王道シーンである。
しかし、ホントにそんなそんじょそこらの青春小説をあの大槻ケンヂが描くだろうか?
本書の中で第一作目からヒロイン山口美可子が繰り返し言う台詞に
『人生ってグミ・チョコ遊びだと思うの。出す手によって先に行ったりおくれたり、でもそうやって、いつかみんなが同じ場所へたどりつくんだと思う」
この台詞を繰り返し読まされて、山口美可子いい娘だなぁ〜とコロッと騙されそうになるのだが、冒頭のグミチョコパインの仕組みを考慮すると素直に喜べない気がするのだ。
どう見てもヒロイン山口美可子の位置づけは、ひたすら『チョコレート』を連発してあ゛っ!?という間に見えなくなるキャラである。
チョコに勝つには『グミ』しかない。しかし2歩しか進めない。たまにパインで勝っても3歩しか進めない。
グミとパインを組み合わせてもチョコレートの一回分を追い越せないのである。
いくら一生懸命追いつこうとしても、『才能』というモノを持ち合わせた神の申し子には結果追いつけすらしない。
『いつかみんながおなじ場所へたどりつく』なんてことは青い時代の戯言でしかない。凡人のボンクラ共は所詮、早々に現実との折り合いを付けてそれぞれが生かせる場所をはやいとこ見つけなさいよという暗示もこの三部作の底辺には流れているような気がする今回の読み直しだった。
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