『スキ』が高じすぎてしまうモノに対してはなかなか手を付けられず、遠巻きに様子を覗ったあげくにしばらくの間放置してしまう性癖がある。
例えば、好きな作家の新刊などは好きすぎるが故になかなか手が付けられず、世の中の風聞も聴かれなくなるのを待つうちに文庫本が出る頃になって初めて心を落ち着かせて読み耽るようなところがあるのである......。
ここ数年、カメラ片手に散歩などを趣味とするようになって以来、以前から訪れたいところがあった。
戦前、永井荷風が足繁く通い、『濹東綺譚』の舞台にもなった隅田川の向こう側、私娼窟であった玉の井である。
もちろん、1945年3月の東京大空襲で街は灰燼と化してしまったために、荷風散人が訪れていた頃の独特の街並みは今や望めないのも心得ているが、でもいまだ多少は町割りの名残でも残っているのではないか?と少しの期待を持ちつつ幾星霜......。
なお、荷風散人は冷静な観察者の目を持つ作家であり、旧玉の井のいくつかをカメラで撮影しているのだ。
それを知ってからはそのポイントを尋ねてみようと思いつつ、ようやく重い腰を上げるに至ったのである。
まだ冬の寒さが収まる気配を感じない2月下旬。
日の出前から家を出て、池袋駅東口に向かった。
旧玉の井は現在は東向島周辺。となれば池袋から浅草に出ればいいのだが、何年かぶりにバスで向かいたかったのである。
荷風も浅草までは都電で向かい、浅草から玉の井に向かったのではないだろうか?
といっても、電車で向かえば30分で着くところを始発の早朝の時間帯とはいえバスだと45分もかかる道のりである...(^^;)ハハハ。
池袋から浅草に向かう草64路線の終点は浅草寺雷門南バス停だが、雷門は行き過ぎなので途中の東武浅草駅前で下車。
この浅草松屋のビルを見るのも久々だ。
隅田川方面に歩き出すために浅草松屋のビルをUターンするように歩いていると、昔懐かしき匂い、いや臭いが漂って来た。
好き者には有名な浅草地下街だ。
自分が小学校に上がる前からこの臭いは変わらない。
なんの臭いが積み重なった臭いなのか、流しに垂れ流した油が排水口から逆流してきたような臭い?
隅田川の浅草側はいつの間にやら助六夢通りなどという名前が付いた遊歩道が整備されている。
平成の浅草を象徴する光景(笑)
雲古ビルの後ろのタワマン?は邪魔かもしれない。
浅草駅から伸びる東武線の線路に平行してすみだリバーウォークという遊歩道の整備されており、ここから対岸の向島へ渡ることとした。
向島側で隅田川を北上していると、この辺りですでに冬の朝の寒気に押されてテンションが萎えてきた...(^^;)ハハハ。
でも、顔を直撃する風に押されてもこのルートを歩いたのはこの常夜燈を見たかったからなのだ。
荷風散人が夜な夜なこの常夜燈の灯りを当てに玉の井へ向かったかどうかは知らないが......。
この常夜燈は明治4年に牛嶋神社に奉納されたモノだそうで、当時はここは牛嶋神社の境内だったそう。
現在、牛嶋神社は隅田公園の整備にともなってここから南へ移転している。
そういえば学生の頃、帰省土産に言問団子でも買って帰ろうかと言問団子を探したことがあった。
言問団子というくらいだから、言問橋のあたりだと勝手に決めつけて橋の周辺を探して廻ったのだが、結局見つからずに満願堂の芋きんを買って帰った記憶がある...(^^;)ハハハ。
ちなみにこの言問団子、言問橋の麓ではなく北の桜橋よりさらに北上したところで営業しているので、あしからず(笑)
当然のことながら、まだ早朝なので開店準備の音も聞こえてこないのでサンプルの写真をパ写リ。
なるほど、『言問』のルーツはこの団子で、言問橋とかはその派生ってことなのか。
言問団子を過ぎたあたりで向島の路地に入り込んで行くと、早くも木造二階建てが密集しているエリアを発見っ!?
なかなか不思議な集落で4、5軒それぞれが行政書士とかなんとか士とか士業な方々が集まっているエリアだった。
向島五丁目あたりは今回のテーマではなかったので、テキトーに路地から路地へ歩を進めていると、なんとっ!?
『鳩の街』へ出てきてしまったっ!?!?
この街はまた興味深いところで、ここはまた別の機会にと今回は全然予習してこなかったんで、初めて鳩の街に足を踏み入れたことよりも、焦りの方が大きく...(^^;)ハハハ。
一見、色合い的に八百屋か果物屋か?という配色ではあるが、店名が『鈴木荘』......興味深い(笑)
そんなこんなボォ〜っと歩いていると鳩の街商店街は水戸街道に突きあたったところで終了。
今回のテーマである荷風が写した玉の井の場所に向かうために東武線の線路沿いを歩いていると、東武博物館というものがあるらしい。
こちらの日光軌道線の車両には縁がないが、
こちらのけごんは鮮明に覚えている。
これに乗って日光に行ったという記憶は無いが、浅草駅で実家に向かうりょうもう号を待っていると、別の日光方面のホームにこのけごんが停車していたのだ。
相変わらず派手な顔つきだ(笑)
なんだかんだと浅草駅からここまでの道のりで、本テーマ外のことに半分以上使ってしまったが、ここからが初の玉の井探訪のスタートである!
ようやく本来の最寄り駅である東武スカイツリー線東向島駅に到着!
かつて東武線とクロスするように白髭⇔向島間に京成白髭線が走っており、この路地の右側あたりに旧京成玉ノ井駅があったらしい。
先ほどの路地の一区画北側の路地。
この路地上が旧京成白髭線跡と推定されるらしい。
荷風散人が玉の井を訪れるようになった頃はすでに白髭線は廃線になっており、その廃線の土手から玉の井の情景を『濹東綺譚』では表現している。
今となっては多少右の区画の方が斜めになっているか?くらいで、ほとんど当時を偲ぶ面影はない。
これは東武線の高架西側の大正通りから東に向かって撮った写真である。
当然のことながら、荷風散人がレンズを向けた当時は高架なんてモノはなく踏切であり、当時の賑やかな玉の井の表通りの往来が写っている。
当時は高架の奧の方には映画館もあったらしい。
荷風散人の写真からちょっと離れて、玉の井らしい裏路地を歩いてみる。
小説上の人物なので、実在したわけではないが『濹東綺譚』のヒロインであるお雪さんはこの路地のあたりを住処としていた設定のようだ。
当時とはあまりにも変わって戦後以来のいわゆる狭小エリアの住宅地となっている玉の井界隈を見て、想像と現実の狭間で戸惑っていると足下をササッと通り過ぎる猫一匹。
すかさずレンズを向けるとピタッと止まってくれた(笑)@
どうやら近所の飼い猫がパトロール中だったらしい。
街が丸ごと灰燼と化したわりにはちゃんとした復興計画がなかったのか、今に至っても区画整理されたフシは見かけられず、クネクネの路地。
テキトーに路地を徘徊していると、ちょうど玉の井いろは通りの玉ノ井カフェの脇に出てきた。
大正通りから繋がる玉の井いろは通りは現在もこの地区の表通りであるようで。
ちなみにこの玉ノ井カフェは、荷風の世界のカフェーとは違い、去年の2月にオープンした今様のカフェです(笑)
次の荷風散人の撮影ポイントに向かうために玉の井いろは通りを東進。
先ほどの玉ノ井カフェからたいして歩いていないところで、この旧郵便ポストが気になり...(^^;)ハハハ。
また路地に入り込んでしまうことに。
この辺りにスナック恋心という建物があったようなのだが、この通り更地に変わり果てていた。
この辺は戦後再興のなかで赤線の名残が最近まで残っていたようで、さすがに私娼窟ではないが、スナック街としてわずかにポツンポツンと存在している。
中には新しめな建物に、この地域ゆかりなのかママの名前なのか、『スナックゆき』という名前のお店も(笑)
いろは通りの北側の路地を徘徊して、またいろは通りに戻ってきたところが次の荷風散人の撮影ポイントである。
この、今さっき自分が抜けてきた路地は以前は大正通り(現玉の井いろは通り)に繋がる東清寺の参道だったらしい。
荷風が写した写真には真ん中下の室外機のあたりに、『曹洞宗 東清寺』の石柱が立っている。
いろは通りを真っ直ぐ歩いて行くといずれ、水戸街道に突きあたる。
そろそろ終盤でもあるので、水戸街道を西へ、東向島駅に向かって戻っていくと、荷風が写した改正道路のポイントに近づく。
当時は水戸街道ではなく改正道路と呼んでいたらしい。
この手前から右奥に伸びていく道を荷風は写真におさめた。
荷風の写真にはマンションの角あたりのところに『玉の井駅入り口』という看板があり。村越洋品店などのお店が連なり、人の往来が賑々しい光景が見て取れる。
とりあえず、街中の撮影ポイントはほぼ同じアングルで現在の光景に置き換えて写真に撮れたので、再び東向島駅へ。
さすがに帰路また浅草まで戻る気力はない...(^^;)ハハハ。
行きは気がつかなかったが、駅名の下に『旧 玉ノ井』と書かれていた。
まだ当時の記憶が生々しい頃合いは『玉ノ井』という名称に負のイメージが高かったのだろうが、濹東地域の再開発が進み、江戸から現在に繋がる文化の一時代に残るこの場所は、今であれば当時の名前の方が粋なのではないだろうか?
ということで、最後の荷風が写した一枚は東武線玉ノ井駅のプラットフォームでの一枚である。
今回、荷風が写した写真6枚は以下にリンクを貼っている徳間書店タウンムック『永井荷風 人生の岐路』に掲載されている写真を参考に、2022年2月の同位置で撮影した6枚である。
これといって風光明媚でも観光地でもない市井の一枚。
撮った本人以外にはなんでこんなところ撮ったの?という写真かもしれない。
おそらく、荷風本人としてはまずは小説の舞台となる玉ノ井のメモとして写真に撮ったのかもしれない。
しかし、そのシャッターを押した場所には、常に冷静な観察者としての視点が注がれているように思う。
今回はムックに掲載された荷風の写真を後追いした、あくまで玉の井のアウトラインをなぞっただけなので、やはり何度も足を運んで路地裏の隅から隅までこの街の現在を見てみたいと改めて思った。