先日読了した岡田育のエッセイ、『ハジの多い人生』を読み終わってフト考えた。
ボクの恥ずかしき小中高時代はどうだったんだろう?と。
作者ほどこじらせてはいなかったと思うモノの、今思うとこじらせすぎはしていないものの、まったくこじらせてはないとはいえない男子だったのではないか?と不安になったのだ。
実際、つい先日同級生から『まぁ〜さんは昔からちゃかしてばっかし!』
もうひとりからは『高田純次みたいで絡みづらい!!』と言われた...。
いやまてまて。
昔々のその昔、Long Long Time Ago、いにしえの時代から『男子のおちゃらかしは照れ隠し』の裏表と相場が決まっているモンである。
また、高田純次と言えばボクにとってはベンガル大師匠、なぎら健壱先生に続くボクのロールモデルである。
彼らのように堂々と飄々と世間と渡り合っていきたいと下腹部がチンチロリンと鳴り始めるころから心の神棚でこの三名様を拝め奉りながらこの歳まで生きながらえてきたので、そのロールモデルの一人にたとえられるのはボクにとっては非常に本望なことなのである。
が、ボクがこの世に生まれ落ちたときから、常に右斜め上のほうからエラそうにボクの生きとし生きる様を眺め続けているもう一人のボクが、そう言われてほくそ笑んでいるボクに向かって囁くのである。
『お前、そんなんでいいの?いい加減、地に足着けらんないの??』と。
いやまてまてまて。
こうやって文章にしてみるとすでに相当こじらせている御仁のようにみえるではないかっ!?
そうではないことを願うために少々我が人生を振り返りたいと思う。
こじらせる要素、それはなにか?
我が人生における小中高のこじらせ要素をあげてみると、
独りっ子であるということ。
読書好きであるということ。
アニメ、マンガ好きであるということ。
TVドラマ好きであるということ。
超常現象好きであるということ。
ドラマの『ムー一族』も雑誌の『ムー』も好きであるということ。
蒐集癖があるということ。
妄想癖があるということ。
くだらない雑学が好きであるということ。
アウトドアよりもインドア好きであるということ。
この中でアニメに関しては思春期の終わりと共に興味が遠のき、マンガは社会人になった頃合いで鞄に雑誌を入れるとガサ張るんで読むのをやめた。
それ以外はいまだに引きずっている。
このこじらせ要素の中でも、好きであるという趣味嗜好のおおもとは次の要素に集約されると思うのだ。
独りっ子であるということ。
読書好きであるということ。
蒐集癖があるということ。
妄想癖があるということ。
いまだにこの要素がボクの細胞の隅々まで染み渡っているということは、小中高の時代も変わらずそぉ〜だったのであろう。
ただ、今も昔も自分ほど無味無臭で害のない平々凡々の人間はおりますまい!世間の人々は実に面白い方々に満ちていることよなぁ〜と自分の平々凡々さを恥じて生きているボクである。
当時はどうだっただろうと先日苦言を呈された同級生たちと同じ時間を過ごした時代を思い返したのである。
ボクが通う中学というところはちょっと環境が異なる中学だった。
小学校時代の同級生がそのまま通う学区内の公立中学ではなく、本人がよくわからないまま受験させられていて、気がつけば中1の入学式前からオリエンテーションの名の下に通うことになる私立中学だったのである。
田舎の地方都市にもかかわらず、電車通学で通う川を渡った隣の県の隣町の学校。
そこにはボクの暮らす街に限らず周囲のさまざまな街からご学友が通学しており、これまでの小学校のような地縁もなく、ほとんどが初めて顔を合わすような学校だった。
私立校で進学校でもあったんで、集まる生徒たちは医者の子やら社長の子やら会計士の子やらボクみたいな普通のサラリーマンの子やら家庭事情は様々。サラリーマン家庭を底辺としてどちらかというとアッパークラスなご子息たちである。
そんななかで、こじらせ要素を併せ持つボクの立ち位置はどうだったであろう?
文字面から想像するにこの要素を併せ持つ戦士は立派に『ハジ』の人生を歩むであろう。ハジのエリートコースまっただ中である。
しかし、ボク自身ハジを歩んでいた記憶が無いのである。
当時は地方だったこともあり、今ほど学内カースト制度というものは明確に分かれていなかった。
その時々の勢いで不定型なアメーバ集団とアメーバ集団がくっついたり、細胞分裂したりして明確なグループ割というものは見受けられなかった。
田舎のご子息ということもありみな性格が暢気だったのであろう。
といっても、クラスの中心集団というモノは少なからず存在する。
ボクは学校で遊ぶときはその中の一員でもあったし、テニス絡みで独自の集団を形成することもある。さらには修学旅行や遠足などの班割の時にはなぜか、よくわからない集団を形成することもあった。
いま思い返すとただの八方美人だっただけなんじゃねぇ〜か?とも思えるのだが、ある日メジャーグループの一員からいわれて自分の立ち位置が腑に落ちたことがあった。
♂『まぁ〜さんてさ、触媒みたいだよなっ!』
そう、彼は和やかな晴れ晴れとした顔をしておもむろに言い放ったのである。
【触媒】
触媒(しょくばい)とは、特定の化学反応の反応速度を速める物質で、自身は反応の前後で変化しないものをいう[1]。また、反応によって消費されても、反応の完了と同時に再生し、変化していないように見えるものも触媒とされる。「触媒」という用語は明治の化学者が英語の catalyser、ドイツ語の Katalysator を翻訳したものである[2]。今日では、触媒は英語では catalyst[1]、触媒の作用を catalysis[3] という。
今日では反応の種類に応じて多くの種類の触媒が開発されている。特に化学工業や有機化学では欠くことができない。また、生物にとっては酵素が重要な触媒としてはたらいている。
触媒、理科の実験で目にするものである。『過酸化水素水に二酸化マンガンを加えると水と酸素にわかれる』という実験で使われる二酸化マンガンが触媒である。
ボクは彼の名言を耳にして、『そぉ〜か、ボクは二酸化マンガンなのであるな。二丁拳銃のガンマンみたいでかっこいいではないかっ!ムフゥ〜』とその字面から思い浮かべる妄想で鼻の穴を膨らませたものである。
彼はけしてボクにガンマンになって欲しかったわけではない。彼が言いたかったのは、ボクがいるときといないときで爆発力が違う。いなくても面白いが、いると爆発力が違うんで、いないとなんかモノ足りない的なことを『触媒』の一言ですませたらしい。
そぉ〜かそぉ〜か、そんなに求められているのか、ではではいつもご一緒してしんぜようなどとは思わないのがマイペースな独りっ子であり、その後もその時々の自分の興味次第でいろんな遊び相手と渡り合っていたそんな中学時代であった。
今こうしてWiki先生の解説を眺めていると、まさにこのとおりであるなぁ〜と思わざるを得ない。
特定の化学反応の反応速度を速める物質で、自身は反応の前後で変化しないものをいう。また、反応によって消費されても、反応の完了と同時に再生し、変化していないように見えるものも触媒とされる。
触媒としての使命を果たしても自分は変わらない。過酸化水素水である相手は二酸化マンガンであるボクの触媒としての仕事により、水と酸素に姿を変えてしまうのである。
ある種強烈な自我である。
そんな中学時代を過ごし、おそらく変わらず高校大学と一歩一歩人間への道を歩んでいったボクであるが、社会の厳しさと恋愛の試練を乗り越えた20台後半には当時付き合っていた彼女にこんなことを言われた。
♀『優しいけどさ、まぁ〜さんほど自我が強くて頑固な人いないよね???(若干詰問調で)』
いやまてまてまてまて。
学生時代にバブルの荒波を乗り越えてきたボクである。雑誌やらテレビやらあらゆるメディアから女子の扱い方を浴びまくってきた世代である。
貴女のために貴女のことを考えてこうしているのになにゆえそんなことをいわれなければならないっ!と自分の思いが相手に届かなかったのもまだまだボクのケツが青かった故。
相手のことをといっておきながら結局自分がという部分が見透かされていたのであろう。
この時点で相当男子をこじらせることになるのではないかと我ながら今後の将来を不安視した20台後半から30台半ば。
思い返すと他にも『変だよね』とか『変わってるよね』とかいわれることはあれど『面白いよね』といわれたことがない。これほど自分では世間様にご迷惑をかけないように平々凡々と生きている人はいないだろうと思いながら日々暮らしているのに......。
触媒であることは引き摺りながらも、自我よりも相手、奉仕することの歓びを見出せるようになったころにはうちの相方さんと結ばれて、現在に至るのである。
どうやらそれほどこじらせてはいないのではないかと自分では思っているが、うちの相方さんからは常々こう言われている。
♀『いったいいつになったら小学校を卒業できるんですかねぇ〜〜〜。』
常にボクの右斜め上から見下げているもう一人のボクも諦め半分、蔑み半分の目でボクを見ている。
いわゆるオタク的なこじらせかたはしていないものの、幼児退行的な方向でそうとうこじらせているようである.........。