戦前、永井荷風が愛し足繁く通った酩酒屋街、私娼窟とも呼ばれた『玉の井』。
荷風が通った戦前の玉の井は現在のいろは通りの南側に数多くの酩酒屋が軒を連ねて、荷風が曰く『ラビラント』の様相を呈していたようだが、それも1945年3月10日の東京大空襲にて焼き尽くされてしまい、現在はその区割りくらいしか存在しない。
玉の井は戦後まもなくいろは通りの北側に一大カフェー街を形成して、昭和31年に売春防止法が施行されるまで赤線地帯として存続するに至る。
そんな歴史を持つ玉の井を前回徘徊したのが1年半前。
この4年近く毎週末朝ン歩ついでに雑司ヶ谷霊園の永井荷風の墓地に墓参してるわりに、そういえばしばらく玉の井には行ってないな?と思うに至り。
前回は荷風が写真に納めた玉の井周辺を巡っていたので、必然的にいろは通りの南側、私娼窟と呼ばれていた頃の玉の井の痕跡を辿るに終わったので、今回はいろは通りの北側、カフェー街の痕跡を辿って歩くことにしたのでした。
池袋からは北千住に出るか浅草に出るかですが、行きは浅草経由で東武伊勢崎線にて東向島駅へ。
前回も確認しましたが、すでに地名としての『玉の井』は存在せず、駅名に旧駅名として小さく『旧玉の井』駅と記載が残っています。
東向島駅からはまずはちと寄り道をして、まだ存在するか確認しに、駅の南側へ歩を進めます。
ちなみに前回のエントリーでも載せましたが、永井荷風が写真に納めた『玉の井駅入り口』の路地は現在も水戸街道の東向島駅入り口交差点として残っています。
この東向島駅入り口交差点のところに建っているのがこちらの『松崎写真館』の建物。
よかったぁ〜まだちゃんと存在していらっしゃいました。
この電話番号の市内局番が『611』と3桁なのがその歴史の長さを感じさせますよね...(遠い目)。
ということで、松崎写真館の建物も確認出来たので、再び駅の方へ歩を進めていろは通りへ。
この右側が戦前荷風が足繁く通ったラビラントな私娼窟としての玉の井が在ったエリア。
左側が戦後赤線地帯としてカフェー街が形成されたエリアになります。
いろは通りの南側は今回はいかない予定だったんですが、なんだろ荷風さんに呼ばれたのか?
前回も通った濹東綺譚のお雪さんが暮らしていたと想定されるエリアに足が向かっていたのです。
こういうところも戦前はドブが流れて板で塞がれた路だったんでしょうね...(遠い目)。
いろは通りの南側のこの辺一帯は現在は『東向島五丁目』ですが、濹東綺譚の設定ではこの路地の辺りでお雪さんが暮らしていたということになっているようです。
そんないろは通り南側のドブ板路を北上して、再びいろは通りへ。
こういう2F部分が地面からは解らないように作られている造作とかそれっぽい気がするんですけど違うのかなぁ〜と思いながら、今回の散策は続きます(笑)
ということで、再びいろは通りへ。
今回は左側のいろは通り北側を散策します。
ちなみに、ここまで当然のように『カフェー』とか使ってますが、意識高い系女子が通うようなハイセンスなカフェ飯やドリンクがいただけるお店はないことくらいはおわかりですよね?
カフェーがもっぱら女給のサービスを売り物にするようになったのは関東大震災後と見られる。震災の翌年(1924年)、銀座に開業したカフェー・タイガーは女給の化粧や着物が派手で、客に体をすり寄せて会話するといったサービスで人気を博した[5]。取締り当局も「大震災を一転機として従来の営業方法に急激な変化があったように思われる。即ち昔の飲食本位のカフェーバー等は俄(にわか)に変じて遊興飲楽の場所となってきた」[6]と見ていた。
昭和に入り、大阪の大型カフェ(ユニオン、赤玉など)が東京に進出してきたことにより「銀座は今や(…)大阪エロの洪水」という状態で[7]、女給は単なる給仕(ウエイトレス)というより、現在で言えばバー・クラブのホステスの役割を果たすことになった。
ちなみにWikipediaで『カフェー』はこのように定義されています。今でいうところのバーやクラブに+αな風俗店という営業形態のようです。
ちなみに地域の情報発信のベースとしても機能しているらしい、こちらの『玉ノ井カフェ』は今でいうとことのカフェなので、安心して入店できます(笑)
前回はこの昔ながらの郵便ポストのオブジェがある路地から入って行ったンですが、今回は一本東側の路地から徘徊です。
もう路地に入った途端にカフェー建築巡り界隈では有名な物件が見えてきました...(^^;)ハハハ。
ちなみに『カフェー建築』とはなんぞや?というと、
カフェー建築とは、終戦直後に全国の赤線地帯で造られた西洋風の私娼宿のこと。
昭和33年の売春防止法施行後はバーやアパート等に転用され、東京では吉原や向島など遊郭跡に一部が残る。
アール状のひさしやタイル張りの壁、柱などが外見的特徴だが、決まった様式はない。
とのことですが、とはいえ一応の目安というか、
- 柱や床がタイル張り
- 2F部分にバルコニーがあり地上からは見えない造作になっている
- 角を取りRが多用されたモダンな外観
- 入口が斜めになっている
- 木彫刻や丸窓など飾り窓が付いている
といった特徴をかね揃えていそうだということを、いちおう頭の片隅に置きながら徘徊をはじめました。
ということで、早速有名な物件に出くわしたわけですが、まずは2Fのバルコニーと角が取れたRがとても特徴的でこれぞまさしく!というカフェー建築でございます。
1F入口脇の窓にも装飾が施された装飾窓になってますね。
2F部分の角は取れて、スティーブ・ジョブズが好みそうなRになってます(笑)
出入口のところをよくよく見ると『玉の井町会員』の記章が貼られてました。
こういうのも元カフェーの証なんでしょうかね?
次の物件はこちらの緑のタイルが目立つ物件っ!?
出入口の部分はアルミサッシでリフォームされてますが、このタイル張りはまさしくカフェーの名残だと思います。
こちらはRにはなってないですが、2F部分のバルコニーが邪魔をして、地上からは2Fの状況が解らないように隠されてます。
Rが無い角張ったスタイルは当時はかえって新鮮だったのでしょうか?
この辺は手前が空き地になったンで奧の物件が発見しやすくなったような感じですが、こちらの物件もなにやらカフェーだったのでは?という気がしたのでいちおうパ写リしておきました。
いちおう『寺島玉ノ井町会々員』という記章が貼られていたんで、当時の名残なのでは?
というか、ここで『寺島』が出てきましたね!
『寺島』といえば、玉ノ井育ちの滝田ゆうの漫画『寺島町綺譚』に当時の寺島・玉ノ井界隈の風情が描かれています。
ちなみに表?に向かうとこんな感じでいわゆるカフェー建築とは異なり、建て増し建て増しで複雑な形をしております...(^^;)ハハハ。
こちらも玉ノ井徘徊業界では有名な物件!?
カフェー建築の特徴をいろいろとかね揃えてございます。
まずは庇の部分のRですね!
そして2Fのバルコニーに手すり。いまは骨組みだけ残ってますが、当時は囲われて飾り付けでもされていたのでしょうか?
1Fはなかなか特徴的で、まずは解りづらいですが右側の出入口は斜めに取りつけられているというこれもカフェー建築の特徴。
それとこの正面の低い位置に付けられた小窓は一体なに用なんですかね?
ちなみに左側の幅狭なシャッターはカフェー廃業後の煙草屋さんの名残かと?
今回は特に当てもなくいろは通りの北側の路地をローラー作戦で踏破していったんですが、これはっ!?と思えたカフェー建築はこれくらいで...(; ;)ハラリ。
おそらくまだ潜んでいることであろうと思いつつも、でもこの手の昭和遺産は次から次へとなくなっていく運命なので、旧玉の井といっても夢幻の如く跡形もなく消えてしまい、玉の井の情景はボクの様にいまだに玉の井を彷徨く数奇モノの心の中にのみ存在していくんでしょうね...(遠い目)。
そんなこんなで思っていた以上に出会えた物件が少なく、多少なりとも肩を落としながら東武伊勢崎線の線路脇の方に出てきました。
こっから左へ元来た東向島駅に戻るか、右に進路をとり鐘ヶ淵駅に向かうか?
結局、元来た道を戻ってもおもしろくないので東武伊勢崎線鐘ヶ淵駅へ!
って、この駅舎をみて驚いたんですが、いちおう23区内なのにこのどこぞの田舎のような駅舎ってすごくないですかっ!?(笑)
以前、鐘ヶ淵の食堂にわざわざ食べに来たことありましたけど、こんなに田舎臭感じなかったんだけど、その時と出入口が違うンだろうか?
ということで、帰りは東武伊勢崎線鐘ヶ淵駅から北千住に出て、千代田線で西日暮里、山手線で池袋というルートで帰宅したのでした。